西方寺
−増上寺黒本尊が疎開―大衆を守る身替観音

日本の象徴、富士山を裾野から大きく仰ぐ富士吉田市は、富士信仰と甲州織で栄えた郡内地方の中心地だ。郊外ではまだ伝統の機織りの音も聞こえ、寺社などの古いたたずまいも多く残る。その地に、大本山増上寺の黒本尊が疎開したという西方寺がある。
この寺の開基は嘉禄2年(1226)、元は臨済宗の寺であった。新田大炊助義重の五男、祖底禅師を開山として大光院方山寺として甲州に庵を結んだのが始まり。その後、文禄元年(1592)に引接(いんじょう)山西方寺と山号寺号とも改め、浄土宗に改宗され三度移転を操り返し、現在の明見(あすみ)に移ったのが享保14年(1729)のこと。
参道を抜け、三門をくぐるとひっそりとした境内には左手に池をはさみ観音堂、その奥に経堂、右手にも池をはさみ鐘楼があり、その他七堂伽藍を整える。200数十年の歴史を語る本堂も今なおその姿を残している。
観音堂には別名身替観音とも言われる十一面観世音菩薩の尊像が祀られる。この十一面観音は、開山の父義重公が源氏代々の守り本尊として信仰したもので開山時から祀られ、爾来七百有余年当時の秘仏として地方大衆の守り本尊となり、天下太平、万人和楽の祈願と続けている。
また同寺は郡内八番目の観音霊場に指定され、甲斐百八霊場の二十八番目にも指定される。江戸時代になると開山が徳川氏と同じ祖先の新田氏に連なることで、幕府から十万石の格式が与えられていた。
太平洋戦争の大空襲で増上寺は焼けおちたが、徳川家康公の持仏であった黒本尊が現在も無事に祀られるのは、当時の住職が命を懸け東京から黒本尊を疎開させたためで、本山からの感謝状も残る。
寺宝としては大小二基の弥陀種子(梵字)の板碑がある。大きい方の板碑は弘長元年(1261)の銘をもち県内では最も古い武蔵系のもので、その他にも多くの宝物が残っている。
訪れた檀信徒と気さくに話す住職は、布教師でもあり教化にかける情熱がみなぎっている。

浄土宗新聞平成5年4月号より記載

寺院情報
寺院番号 16-084
山号 引接山
院号 淨土院
寺号 西方寺
所在地 〒403-0002 山梨県富士吉田市小明見二丁目18‐27
TEL 0555-22-0299
FAX 0555-22-0499