放光寺

五条川の水力を利用し水車業を営んでいた丹羽郡小口村下小口字寺田の庄屋西村金八夫婦は、幡隆上人が笠ヶ岳・槍ヶ岳への往復の折節に西村家で駐錫したのが機縁となり、わが子を上人の弟子として出家させる程の幡隆信奉者であった。

亭主金八を亡くした愁嘆から幡隆に帰依し得度していた暁智法尼は、その嫡子金次郎夫婦と共に亡夫及び先祖の追善供養のため幡隆上人と隆幡の導引を得て一宇を建立し、子女順を開山として、城台山幡隆院一心寺に結縁を求め、浄土宗知恩院派に属す放光庵を創設した。その後明治三十四年、教順の発願により東京本所大手町にあった良徳院の寺籍を得て移転合併し、解脱山放光寺と改称した。

昭和十九年に淳蓮社覚譽道阿放光教説法尼により瀬戸市湯之根町1番地(現ひかり保育園)に移転、更に平成十二年五月五日に現在地(瀬戸市泉町33番地6)へ移転。裏堂位牌壇には、幡隆上人・隆幡大律師・隆説大和尚・金八夫婦の位牌が安置されていて、今にその遺徳の尊崇を護物している寺院である。

西村家の先祖は応永十五年(一四〇八)頃、美濃の国猿啄(岐阜県加茂郡坂祝町勝山)の城主であった西村豊前守善政(永昌)の後裔だとの伝承をもち檀那寺は犬山の真宗派円明寺であるか、檀那寺の宗派を超えての幡隆信奉者であったようである。
放光寺の開創年月については定かでないが、移転されて旧寺(ひかり保育園)敷地内に安置される薬師如来像台石に、
解脱院徳譽釋締晥居士
方光庵西圓暁智法尼
高蓮社量譽隆幡和尚
上蓮社行譽隆輩和尚
本忍院教順沙彌尼
(台左面)天保十五年
辰二月
施主下小口村中
(台右側)棄俗入無恙
眞実奉恩謝
とある。

一心寺、正道院の創立がともに天保元年であり、金八の没年と考え合わせてみると、一心寺、正道院と同時期のであろうと思われる。

尚、一心寺五世であった隆説の位牌
實峯梅屋教真法尼
戒蓮社戒譽一心阿広隆説大和上
隆譽願阿妙信教譽法尼
昭和二年四月廿一日
(牌陰)昭和二年十一月廿六日
昭和五年一月十七日
もあって放光寺と幡隆上人との関りの深さが知れる。

寺院情報
寺院番号 22-114
山号 解脱山
寺号 放光寺
所在地 〒489-0073 愛知県瀬戸市泉町33番地の6
TEL 0561-82-5637
FAX 0561-84-5375