宗安寺
幕末彦根の左右を決めた寺 本尊は淀殿の念持仏

宗安寺(そうあんじ)の始まりは群馬県高崎市の安国寺に由来しており、徳川四天王の武将といわれる井伊直政公が深く関わっている。
直政公は1590年に神奈川県の小田原征伐などの戦いで功績をあげ、同年の徳川家康公の関東入国とともに上野箕輪城十二万石を与えられた。その際、正室の両親の供養のために荒廃していた安国寺を復興した。
そして、直政公は1600年の関が原の戦いでの勲功を称えられて石田三成公の近江佐和山城の城主に。そこで安国寺も付近にと城のそばに高崎安国寺を分離させて建立。正室両親の戒名を一字ずつとって宗安寺と改名した(住持成誉典応上人が開山上人となっている)。江戸幕府が開かれた1603年、彦根に城を移し、宗安寺も現在の位置に移築された。
宗安寺は井伊家の強大な保護を受け、家康公死去後、同じ浄土宗ということで家康公の位牌奉安所となり、藩主自ら参拝にくるようになった。また当時、城下町のほぼ中心に位置していた宗安寺は隆盛をきわめ、1695年には僧侶35人・寺男11人・塔頭四庵・末寺八ヵ寺を有し、本山クラスまでになった。
ところが、1701年の彦根大火で佐和山城正門だった赤門(現存)を残して全焼。翌年に長浜城付属御殿をもらい受け、本堂とした。その後も彦根藩の集会所の役割や藩士の会合、朝鮮通信使の宿、幕末には彦根藩が幕府側か朝廷側のいずれにつくかの会議所などとして使われ、彦根の左右を決める所となっていた。
本尊は大坂夏の陣で井伊家臣が大坂城の仏間から拝持した淀殿の念持仏と言われているもので、修復の際、『文永七年(2170)……佛子阿澄」と記された写経や写仏が体内から多数発見され、県の文化財に指定されている。また、家康公の位牌を祀る権現堂や先の朝鮮通信使の肖像画(市の文化財)など寺宝も数多い。

(浄土宗新聞 平成7年2月号より)

寺院情報
寺院番号 28-001
山号 弘誓山
院号 天白院
寺号 宗安寺
所在地 〒522-0064 滋賀県彦根市本町二丁目3番7号
TEL 0749-22-0801
FAX 0749-22-9881
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