当山の草創は、明応2年(1493)室町足利十代将軍義植の時代で、証蓮社行誉上人により西長源寺が創建されたことに始まる。その場所は、現在の寺と晩稲部落の中間地点の田甫字名を「西源寺、東長源寺」といっているが、戦後一帯の耕地整理が行われ、その折土師器、須恵器類及び建物の土台石、素焼の瓦等多数発見されており、確かに祭祀に関係した建物が存在していた事実が証されている。
文禄2年(1593)第5世欣誉上人の8月、全国的に大降雨あり、特に中頃からの豪雨はものすごく、鳥取の浸水は中域鼓門の石壁まで溢れたという。丁度、豊臣秀吉が高麗(朝鮮)に出兵中の水害で、後世まで語り伝えて「高麗水」と称されている。この水渦により西長源寺外大山寺、東長源寺等流失した。しかし時同じくして千代川上流より一堂宇が流れ来て、東岸浜坂十六本松(賀露村地内字東向浜)に滞留したのを村民一同、異口同音に「東【・】に善【・】い寺【・】が流れて来た」と言い、時の因幡の国主宮部善祥房に請うて本村所有とし、瑞松地帯であることから瑞松山と号して東善寺と称することとなった。
第6世玄誉上人は、承応元年(1652)9月12日示寂されているが、その葬送当日の夜半突然の出火あり。宝物過去帳を含む堂宇一切灰塵に帰したが、幸いに本尊阿弥陀如来は奉持してのがれ、現在の寺の位置(小さな観音堂が所在していた)に遷座安置された。そして翌承応2年超誉上人が第7世を継承、観音堂第1人目の住職となって以来、本堂建立までの120年の間観音堂が仮本堂となったのである。ちなみに現過去帳は仮遷座の承応元年から6年前の正保3年(1646)から始まり、昭和55年(1980)末までの334年間に、老若男女合わせて15,271霊位が記載されている。
現本堂は(7間×6.5間)第16世神蓮社等誉上人の発願により、明和4年正月25日時恰も宗祖法然上人の御忌日を卜して丁能始(起工式)が行われ、6年の歳月を費して同9年(改暦安永元年、1772)10月21日竣工されている。この本堂建立以来、西接山、福田院、東善寺と号し、長源寺草創以来約500年の法灯は継がれて、現在31世代に至っているのである。
尚現本尊阿弥陀如来及び観音勢至像は、本堂完成2年後に入仏開眼されているが、作者年代が不明のままで、或いは湛慶作と伝える人もあったようである。
寺院番号 | 34-008 |
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山号 | 西接山 |
院号 | 福田院 |
寺号 | 東善寺 |
所在地 | 〒680-0905 鳥取県鳥取市賀露町496‐1 |
TEL | 0857-28-1221 |
FAX | 0857-28-1131 |