圓光寺
枝を広げる夫婦かつら首塚は 父思う娘の心で

みちのくの都・盛岡に、数々の歴史をいただく円光寺を訪ねた。

円光寺は寛文年間(1661年〜73年)に生連社良往上人によって開かれた。現存の本堂、山門、鐘楼は、その後まもなく建立されたもので、本堂は江戸時代の地方寺院を代表とする、市の保存建築物に指定されている。
本堂前に創建時に植えたと推定される、樹齢300年のカツラの大木が枝を広げる。雌雄であることから、「夫婦(めおと)かつら」と呼ばれるが、春先には紫色の花が木を覆い、紫雲山の名にふさわしい姿をみせるという。境内には落ち着いた木肌をみせる観音堂が建つが、その脇に立派な「首塚」と記された石柱が立つ。その由来は延宝3年(1675年)にまでさかのぼる。

時の南部藩の奥女中に蓮子という娘がいた。あるとき父が禁制のキリシタン信者ということで斬首となったが、蓮子はその夜、闇に紛れ、父の首を盗み、回向を願って寺々を回った。寺々の門は閉ざされていたが、ただひとつ円光寺の脇門が開いていた。これを幸いに回向を依頼、住職は寺の運命を思ったが、回向は僧の勤めと、ひそかに読経し埋葬した。蓮子は翌朝、自首をしたが、藩主はその親孝行に胸を打たれ、蓮子を側室に。その間に生まれたのが31代藩主信恩(のぶおき)公と伝えられる。
のちに蓮子は父の菩提を弔うために観音堂を寄進、現在は盛岡の観音11番札所となっている。

また、寺には近代に活躍した名士も眠っている。連合艦隊司令長官、海軍大臣、内閣総理大臣(昭和15年)を歴任した米内光政(よない みつまさ)氏、その人である。
米内氏は戦争の気運が高まるなかで、親米英派の内閣を組閣し、開戦を防ごうとした政治家で、陸軍派に押され退陣したが、19年7月から海軍大臣で復帰し、戦争終結にむけて日本が灰塵となるのを防ぐ先頭に立っている。

【交通】JR盛岡駅からタクシーで約10分。
(浄土宗新聞 平成9年6月号より)

寺院情報
寺院番号 04-002
山号 紫雲山
寺号 圓光寺
所在地 〒020-0874 岩手県盛岡市南大通三丁目11番49号
TEL 019-654-2601
FAX 019-654-5101