當山は、『寺伝』及び『新編武蔵風土記稿』『光明寺誌』によると永徳2年(1382)浄土宗関東総本山檀林鎌倉光明寺・第四世円蓮社聖満良順上人(えんれんじゃしょうまんりょうじゅんしょうにん)によって草創・開山され、快楽山安養院相頓寺と称しました。良順上人は、当寺の本寺である檀林勝願寺の第4世も務められている。良順上人が開かれたのち、天正年間、すなわち四百数十年ほどの昔、円蓮社総譽上人によって再興された。内陣の枡組みを見ても、往時をうかがうことができる。総譽上人は、小田原北條氏の一族の出であると伝えられている。檀林鴻巣勝願寺の中興で、天正15年(1587)岩槻城主太田市房の帰依を受けて加倉(現在のさいたま市岩槻区)に檀林浄国寺を創建された名僧である。家康も上人に帰依すること厚く、たびたび同上人の談義を聞かれている。このように当寺は、優れた学僧によって開かれ、名僧によって再興された、古い伝統を持つ寺院である。
戦後の農地改革によって二町有余の土地も解放され、また第二産業道路の予定地にかかり、境内地も縮小している。原市に浄土宗のお寺で快楽山(けらくさん)安養院(あんよういん)相頓寺(そうとんじ)があります。「新編武蔵」によると、鴻巣宿勝(しょう)願寺(がんじ)の末寺で同寺4世の良順上人が永徳2年(1382)南北朝時代の末に創建したとあります。これを裏づけるように、同寺の墓地内、歴代住職の墓の中央に「南無阿弥陀仏」という六字名号を刻んだ高さ1,37メートルの板(いた)石塔(いしとう)婆(ば)があって、それに永徳2年の年号があり、同寺では開山の書によるものと伝えられています。そうだとしますと、この板石塔婆は、相頓寺創建の記念碑ということになります。(市指定文化財)。なお、開山の良順上人が勝願寺4世ということは「新編武蔵」によって書きましたし、勝願寺の末寺であったことも事実ですが、良順については、浄土宗の名刹(めいさつ)である鎌倉の光明寺の4世であったということの方が正しいようです。
さて、この相頓寺の前に立って、まず目をひかれるのは、その門でしょう。ふつうの山門とは違って、ここの門の二階には、梵鐘がつりさげられているのです。こういうのを鐘楼門と言っています。りっぱなものでは、近くの川越市の喜多院には、国の指定になっている鐘楼門がありますし、地方でもところどころで見かけることはありますが、めずらしいものです。とくに上尾市においては、鐘楼門をもつお寺は、この相頓寺だけです。そういう意味で価値あるものといえます。
ただし、今つるしてある鐘は戦後のもので、古い鐘はこの3倍もあったそうですが、戦時中に供出されました。よほどよい鐘と見えて「新編武蔵」にも、元禄8年(1695)の鐘としてあります。供出に際して、その事情を書き記した記録と鐘銘の拓本が保存されています。それによりますと、古鐘は元禄8年9月13日の日付をもち、同寺12世楽誉上人の時のもので、江戸神田鍛冶町の鋳物師、大(おお)田(た)近(おう)江(み)大(だい)掾(じょう)藤(ふじ)原(わらの)正(まさ)治(はる)の手になるものだったそうです。昭和17年12月19日に鐘供養の法要がなされ、「征戦を終えてのちまた還り来てこの鐘楼門に安居(あんご)せよ……」という悲痛な言葉で送り、翌年1月に撤去されましたが、再び還ることはなかったのです。実はこの古鐘もヒビがはいって音色が悪かったそうです。というのは明治15年(1882)に原市に大火があったとき、若者がこの鐘楼門にあがって、どことかまわず滅多打ちに打ったためだと言います。
こんな歴史をもつ鐘も今はなく、小さくなった昭和鐘をさげている鐘楼門は、心なしかさびしげに見えます。この鐘楼門の建てられた時代については明らかにされていませんが、やはり古いときの鐘の鋳造期と同じころと見てもいいのではないかと思います。
- 写経会
- 法話会
- 詠唱(吉水流)
- 除夜の鐘
- その他習い事
- 普通車:28台 あり
- 拝観可
- 御朱印
寺院番号 | 12-024 |
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山号 | 快楽山 |
院号 | 安養院 |
寺号 | 相頓寺 |
所在地 | 〒362-0024 埼玉県上尾市五番町14番地2 |
TEL | 048-721-3201 |
FAX | 048-721-5356 |
URL | http://www.soutonji.jp/ |