菩提寺

岡山県と鳥取県の県境にある標高1,240メートルの那岐山の中腹に位置している本格的な山岳寺院。持統天皇の時代に、役の小角(えんのおづぬ)によって開かれ、後聖武天皇の時代に行基菩薩が山腹に七堂伽藍・三十六僧坊を建立し、美作第一の学問道場として栄えたと伝えられる。巨大な菩提樹があったことが、寺号の由来といわれる。
菩提寺は数度の火災に遭い、堂宇灰塵に帰し、今は僅かに観音堂(現在の本堂)と庫裡一棟が残っているだけである。本堂には、勢至丸稚児姿の尊像がまつられている。境内右手に勢至丸のお手植えと伝えられている樹齢850年の大公孫樹があり、国の天然記念物に指定されている。
奈良時代に役の小角によって開創されて以来、菩提寺はさまざまな変遷を重ねてきました。宗派も法相宗(開山から114年間)、天台宗(369年間)、浄土宗(491年間)、真言宗(208年間)と移り、明治初期に再び浄土宗に復帰しています。
ただし、開山から江戸時代初期までは独立した一本山でしたが、浄土宗から真言宗に移ったのは、寛文5年(1665)、キリシタン禁制を目的とする幕府の宗教政策によって各宗本末制度が整えられた結果です。それまでは宗派といっても今日のようにはっきりしたものではなく、菩提寺は独立した一本山であるとともに、法然上人所縁の寺として浄土宗に属していました。したがって、この時、本来なら浄土宗となるべきところ、菩提寺がある高円村の村人の多くが真言宗であったために真言宗嵯峨御所(大覚寺)の末寺になったと推定されています。

その後、菩提寺はたいへん衰退したようです。それが思わぬことから明らかになっています。安政6年(1859)、曹洞宗の大本山、総持寺と永平寺の間で袈裟を巡る争いが起こり、江戸の寺社奉行に訴訟するという事件に発展しました。その時、高円村の曹洞宗寺院、蓮光寺の住職・達音という人が総持寺の役員として江戸に呼び出されています。その達音にたまたま出会ったのが増上寺役員、香誉上人でした。
香誉上人は達音が高円村の人だと知り、法然上人ゆかりの菩提寺の様子を尋ねました。すると、菩提寺は今や荒れ果て、檀家のない極貧寺だということでした。このままにはしておけないので知恩院・増上寺の総大本山は菩提寺の浄土宗への移籍を大覚寺に働きかけることに決定しました。記録によると、万延元年(1860)、50両の離末金を大覚寺に献金して交渉していますが、いろいろな事情で話はまとまりませんでした。しかし知恩院・増上寺は、菩提寺に阿弥陀仏像ほかを寄付し、復興に尽くしています。
が、その甲斐なく、明治6年(1873)、当時の北条県の命達によって菩提寺はついに廃寺となりました。その理由は「無禄無檀永続の目途なし」ということでした。
しかし、明治9年、吉水祥真吉水賢融の両師がここに立ち寄り、地元の人から安政・万延の頃のいきさつを聞きました。これが新たな復興の発端になります。知恩院では早速、再興主任を定め、各方面に働き掛けました。そして明治10年、官許得て再興が成ったのでした。今日、菩提寺では地元の方々らによって奉賛会が結成され、その活動が進められています。

寺院情報
寺院番号 37-007
山号 高貴山
寺号 菩提寺
所在地 〒708-1307 岡山県勝田郡奈義町高円1532番地
TEL 0868-36-4599
FAX 0868-36-4559